LOGIN朝、鏡の前で髪を整えながら、私は自分の顔をじっと見つめた。
……なんか、疲れてる。目の下のクマが微妙に主張してる気がする。「ま、いっか。社会人の勲章ってことで」無理やりポジティブに言ってみたけれど、口角は上がらなかった。昨日の夜、ふとスマホを開いたときに見てしまったのだ。社内ポータルの写真──休日の勉強会で、瑠奈が嵩と並んで笑っている。背景にはカフェの白い壁と、本やノートが散らばったテーブル。もう、それだけで充分だった。眠れなくなる理由としては。「……勉強会、ねぇ」つぶやく声は、自分でも呆れるほど低かった。診断士に合格した嵩が、今度は瑠奈の勉強を見てあげているらしい。休日に、カフェで、二人きりで。そんなの、もう“勉強”というより、“恋の予習”ではないですか。木曜日の夕方。 定時を告げるチャイムが鳴っても、 朱里はすぐに席を立てなかった。 (……今日は、何も言われてない) (でも、言われないまま終わる気がしない) そんな予感だけが、胸の奥に居座っている。 パソコンを閉じ、立ち上がった瞬間。 「中谷さん」 呼ばれて、身体が強張る。 振り向くと、嵩が立っていた。 いつもより少しだけ距離が近い。 「……帰り、歩ける?」 「はい」 即答してしまった自分に、少し驚く。 エレベーターを降り、会社を出る。 夜に切り替わりきらない空が、妙に落ち着かない。 二人は、自然と並んで歩き出した。 話題は、他愛もないものだった。 「今日、会議長かったね」 「ですね……集中力、後半危なかったです」 「俺も」 笑う。 でも、どちらも“本題”を避けているのが分かる。 歩幅は揃っているのに、心は一歩ずれている。 しばらくして、嵩が足を止めた。
水曜日の昼。社内はいつも通りのはずなのに、朱里は、嵩の背中がやけに遠く感じていた。(……何か、あった)理由は分からない。でも、昨日までの“静かな安心”が、薄く剥がれ落ちた感覚。嵩はいつも通り仕事をしている。表情も、声も、態度も。だからこそ──違和感だけが、残る。「朱里」昼休み、背後から声をかけられた。振り向くと、美鈴が立っていた。トレーにコーヒーだけを乗せた、いつもの無表情。「……美鈴、どうしたの?」 「席、空いてる?」朱里は頷き、二人で窓際の席に座る。しばらく、何も言わない。それが美鈴の“前置き”だと、朱里は知っている。「ね」 「うん?」 「平田くん、昨日から少しおかしい」朱里の指が、紙コップを握る。「……やっぱり、そう見える?」 「見える。かなり」断定。迷いのない声。「理由は?」 「分からない。でも……」 美鈴は一拍置いて、続けた。 「“決断を一人で抱えてる顔”してる」朱里は、
夜十一時。嵩は、部屋の明かりをつけないまま、ソファに座っていた。カーテンの隙間から、街灯の白い光だけが差し込んでいる。テレビは消えたまま。もし音を流したら、考えるのをやめてしまいそうだった。テーブルの上には、スマホ。課長からのメッセージは、まだ既読になっていない。《正式通知は今週中。準備を始めておいてくれ》短い文面。逃げ場のない現実。(準備、か……)転勤は、仕事としては正解だ。評価も、チャンスも、間違いなく手に入る。でも──朱里の顔が浮かぶ。駅前で、少し震えた声で言われた言葉。──「待てます」その一言が、嵩を縛っていた。待たせる権利なんて、自分にあるのか。約束していい未来なのか。ソファの背にもたれ、天井を見る。(選ばない、は選択じゃない)分かっている。分かっているから、苦しい。ポケットに入れたままの名刺入れを取り出す。そこに挟まっていた、朱里のメモ。以前、仕事で渡されたものだ。走り書きの文字。少し癖のある丸み。ただのメモなのに、指が止まる。
それは、午後三時を少し過ぎた頃だった。 「平田、少し時間いいか」 課長の声は、いつもより低かった。 嵩は一瞬だけ手を止めてから、頷いた。 「はい」 会議室は使われていて、場所は給湯室の奥。 半分、人目を避けるような位置。 その時点で、ほぼ分かっていた。 「……単刀直入に言う」 課長は、周囲を一度見回してから言った。 「来月付けで、地方支社への異動。 最終承認待ちだが、覆る可能性は低い」 “ほぼ確定”。 その言葉は使われなかった。 でも、言われなくても十分だった。 「期間は?」 「最低二年。 戻りは……正直、未定だ」 嵩は、ゆっくり息を吸った。 頭の中は、驚くほど静かだった。 動揺よりも先に、整理が始まっている。 「業務内容は?」 「今の担当を引き継ぎつつ、向こうで立ち上げを任せたい。 お前なら適任だ」 ──評価だ。 紛れもなく。 でも、胸が重くなる。
それは、会議の終わり際だった。「──あ、そういえば」課長が資料を閉じながら、何気ない口調で言った。「来月の人事異動、最終調整に入ってます。 正式発表はもう少し先ですが、各部署、引き継ぎの準備だけは進めておいてください」その一言で、空気がほんの少しだけ張り詰めた。“来月”“人事異動”。朱里の指が、無意識にペンを握り直す。(……来月?)ざわ、と小さな波が広がる。「今回、動く人多いらしいですよ」 「営業、地方出るって噂ありますよね」 「え、誰が?」──噂は、形を持たないまま、具体性だけを増していく。朱里は、視線を落としたまま、聞いているふりをしていた。聞きたくないわけじゃない。でも、聞いてしまったら、何かが決定的になる気がして。ふと、顔を上げると。斜め前の席で、嵩が静かに資料をまとめていた。表情は変わらない。いつも通り、落ち着いていて、冷静で。──でも。朱里には分かってしまった。嵩は、この話題を“初耳”として聞いていない。昼休み。給湯室で、望月瑠奈が声を潜める。「ねえ、中谷さん」「はい?」
翌朝のオフィスは、いつもと同じだった。いつも通りの照明、いつも通りのキーボードの音、コーヒーの匂いと、誰かの小さなため息。──なのに。朱里は、席に着いた瞬間から、自分だけが少しだけ世界から浮いている気がした。(昨日の夜、確かに……)平田嵩に「好きです」と言った。怖いまま、震えたまま、逃げずに。それだけで、世界がひっくり返るわけじゃない。でも、元に戻ることも、もうできない。「おはようございます」少し遅れて嵩が出社してくる。声はいつも通り、表情も落ち着いている。朱里も、いつも通りに返した。「おはようございます」──それだけ。目は、合わなかった。でも、避けたわけでもない。「変に意識しない」それが、二人の中で無言の約束みたいに存在していた。午前中の業務は、滞りなく進んだ。資料の確認。簡単なやり取り。必要な報告。距離は、昨日までと同じ。言葉の温度も、仕事の精度も。……ただ、違ったのは。朱里が立ち上がった瞬間、嵩が一瞬だけ、反射的に視線を上げたこと。